【山形浩生・岡田斗司夫】「お金」って、何だろう?

山形浩生岡田斗司夫】「お金」って、何だろう?(2014/11/20)
※以下抜粋

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 岡田: 先ほども言ったように、人口が減って、必要十分なモノがみんなに行き渡れば、貨幣経済の規模は減少するでしょう。でも、貨幣を使った取引が減少するだけで、人と人の交流が失われるわけではないはずです。むしろ、貨幣という制約の多い媒介を使わないことで、本来の意味での経済活動、モノやサービスの交換は活性されるのではないか? 貨幣を使うより、もっと合理的でスムーズな取引が可能になるのではないでしょうか。


 山形: なるほどなるほど。物々交換の場合、取引するモノの品質を保証することができませんから、自分の欲しいモノと相手が持っているモノをマッチさせるのが難しい。そこで貨幣経済では、いったんお金を介在させて取引を行うようになりました。お金の価値が下がらないよう国家が面倒を見るなど、貨幣経済では信用を担保するシステムが一応あるということになっています。だけど岡田さんとしては、インターネットがあれば、お金なしでもうまくマッチングできるだろうということですね。


 岡田: そうです。それに、お金による品質保証があらゆるモノに対して必要だということもないでしょう。店で売られている、知らない人が作ったコシヒカリでなくても、知り合いが作ったお米で十分おいしいじゃないですか。どうして僕らはお金を出して、高級品を食べなきゃいけないんでしょう?

 お米のカタログから一番高い商品を買ったら、自分はそれだけ稼ぐ能力を持った、価値ある人間だという気がするかもしれません。だけど、高いモノを買わないと生きている価値を感じられないというのなら、あの変なネオヒルズ族の奴らと同じ思考パターンです。もしそれが真実なら、最高級の食材を食べて、最高級の家に住んで、最高級の服を着ている奴は最高にハッピーなはずだけど、僕にはどうもそうは見えない。それより、自分のことを好きだと言ってくれる女の子がスーパーマーケットの安い米で握ってくれるオニギリのほうが、絶対にうまいんです。


 山形: なるほど、経済活動とは価値観のやり取りそのものですね。ただ、貨幣と評価、どちらかがもう片方を駆逐するのではなく、うまく併存していくようになるとは思いますけどね。


 岡田: 今どきの若い奴らは、自分の物欲や禁欲につけ込まれて働かされることを極端に嫌います。そういう人は、人との交流や自分の体験といった、お金に変換できないもののほうが貴重だと考える傾向があります。僕はこれを「自分の気持ち至上主義」と呼んでいますが、評価経済とすごく相性がいいんですよ。


 山形: ただ僕は、すべての人間が濃厚な人間関係に価値を認めるかどうか、ちょっと懐疑的です。


 岡田: 人間関係を求めない人は、お金に頼ればいいんですよ。評価経済が拡大してきても、お金はなくなりません。他人よりもお金のほうを信用して、いい家に住んで高級食材を食うのが好きな人だっているでしょう。だけど、そういう人はあまりうらやましがられないようになっていくんじゃないかな。イケメンとかかわい子ちゃんとか面白い奴と、お金持ちなだけが取り柄の奴がいたら、前者のほうがあこがれの対象になる気がする。「あいつはお金しかないからつまらない」というように、社会におけるお金のプライオリティが低くなっていくんです。