【上杉隆】新聞・テレビはなぜ平気で「ウソ」をつくのか

上杉隆】新聞・テレビはなぜ平気で「ウソ」をつくのか(2012/2/29)
※以下抜粋

■p93
 新聞やテレビなど既存メディアの情報は、2011年3月~4月の2ヵ月間、ほとんど役に立たなかった。いや、いまでもそれは変わらない。あえて「役立たず」と述べたが、「ほんとうはわかっていながら、真実を報じなかった」と言ったほうが正しい。これは消費者にしてみれば、欠陥商品を売りつけられたも同然であり、なかば詐欺ではないかと思うのである。

 いまの日本の既存メディアにもっとも当てはまる肩書きは、「政府広報」だろう。そのような彼らでも、自称「ジャーナリスト」なのである。

 

■p118
 自分にとって都合が悪かろうが、意見が反対だろうが、ジャーナリズムには真実を追い求め、公表しなければならない義務がある。だからこそ、高額の給料を受け取り、公的な情報へのアクセス権を特権的に認められ、社会的にもさまざまなかたちで優遇されているのである。

 しかし、残念ながら日本の既存メディアは、その点を完全に取り違え、みずからをたんなる社会的な特権者だと思い込んでいる。とくに記者クラブのなかにいると、自分たちは世の中を動かすプレイヤーであるという錯覚に陥りがちだ。そこでは往々にして、正義の旗を振りかざして、自分たちの敵である「悪者」を裁いてやろうとの思いにとらわれる。

 

■p131
 私が以前『ニューヨーク・タイムズ』の記者をしていたとき、東京支局長としてハワード・フレンチ氏が就任した。そのとき『朝日新聞』の幹部に、挨拶を兼ねて食事をしたいと頼まれ、セッティングしたことがある。食事の席でその幹部は、「自分は『朝日新聞』のコラムニストで、こういう仕事をしていて……」と、みずからの自慢話をとうとうと述べた。

 食事のあと、ハワード氏は言った。「いったい彼の何が優秀なのか?」。『朝日新聞』に三十年も勤めているといったところだと説明する私に、彼は逆の意味で聞いてきたのだ。

 「だからどうした、それはよほど能力がないということか?」

 海外のジャーナリストにとって、同じ組織にいつづけることは、必ずしも優秀だということを意味するわけではない。日本では『朝日新聞』やNHKの幹部になることが名誉かもしれないが、海外におけるジャーナリストの頂点はフリーランスである。フリーランスで食べていけることこそ、自分の名前だけで勝負できる実力をもっている証になるのである。

 

■p198
 結果にとらわれず、世間の評価を気にせず、自分のやりたいことに従って生きる…一般的にこれは困難なことだと見なされがちだが、じつはそれほど難しいものでもないと思う。

 もともと私は、星が好きだった。小学校高学年のときには、天文学者になりたいと真剣に考えていたほどである。当時、東京のど真ん中の空はいまほど綺麗ではなく、星といえばシリウス、明けの明星くらいしか見えなかった。そこで講談社の「ブルーバックス」シリーズなどをそろえて、星の見えない室内で想像を働かせ、宇宙に思いを馳せたのである。

 当時は、ビッグバンによる拡張宇宙の理論が一世を風靡しているころだった。その理論の虜になり、たとえば、135億光年先に理論上の宇宙の果てがあるのか、とか、いま見ている8.6光年離れたシリウスの光は8年以上前のものなのか、などと空想していたものだ。

 そんな宇宙の広大さと自分自身のスケールを考えたら、自分の存在など、なんとちっぽけなものだろう…若者にありがちなニヒリズムに私は陥った。たとえ現世での名誉や利益を求め、仮にノーベル賞を獲り、総理大臣になったところで、それがどうしたというのだ。結局、数十億年後には太陽の赤色巨星化にともなう拡張によって、地球の軌道まで呑み込まれ、地球も人類も滅びてしまう…。

 ならば、「こんな奇跡的な確率で生まれ、生きつづけている。せっかく一度しかない人生なんだから、楽しむしかない」。逆にそう思うようになったのだ。