【秋山佳胤・森美智代・山田鷹夫】食べない人たち

【秋山佳胤・森美智代・山田鷹夫】食べない人たち(2014/7/15)
※以下抜粋

<第1章:秋山佳胤>
■p1
 不食とは、「物質的な食物を摂取しなくても、人は生存できる」ということを証明するための生き方といってもよいでしょう。よく比較される「断食」には、そうした考え方はありません。断食では一時的に食物の摂取を絶ちますが、その期間が過ぎれば元の食生活に戻っていきます。それに対して、食べない生活を習慣としてずっと続けるのが不食です。

 

■p18
 ある意味、不食とは、人間は肉体的な存在でなく、スピリット(魂)であることに気がつくための練習なのです。魂にはなんの束縛もありません。宇宙に偏在するエネルギーそのもので、いつも自由で、幸福でいられるのです。

 

■p49
 いい悪いの判断をしなければ、そもそも争いは生じません。善悪という前提に立てば対立が生まれますが、善悪はないのだという立場に立てば、初めからそこには何もないのです。そこは、ニュートラル(対立する二つのいずれにも属さない状態)な世界、ゼロの世界、言い方を変えると「調和」があるだけです。このゼロの世界で暮らせるようになること。それが、不食がもたらす最大のプレゼントなのです。

 

■p73
 会社に定年まで勤めれば満額の退職金や年金がもらえる。だから、いまはつらくてもがんばるのだ、という人もいるでしょう。それもひとつの選択です。しかし、その選択は恐怖から生まれているのかもしれません。つまり、明日飢えて死ぬようなことがあったら困るので、いまはつらくてもがんばるのだという選択です。もちろん、そうした選択があってもかまいません。

 しかし、不食の人はもともと飢えることがないので、明日のことをあれこれ心配するより、いまを楽しむこと、いまを大切にすることを選択します。いつもあるのは「いま」です。いま以外には、時間は存在しません。実際に、明日が来たことがあるでしょうか。目の前にあるのは、いつもいまであって、明日ではないのです。明日はあなたの頭の中にあるだけで、現実にあるのはいまだけです。そのいまを大切にしなければ、人生を大切にすることはできないでしょう。

 さあ、あなたはどんな選択をしますか?

 

<第2章:森美智代>
■p95
 ここで知っていただきたいのは、私が脊髄小脳変性症という難病によって、不食へと一歩一歩近づいていったことです。つまり、玄米菜食にしろ、生菜食にしろ、食べると体調が悪くなっていくことから、その摂取量をどんどんへらしていき、病がすっかりよくなったときには、私は不食の人となっていたのです。これは、私の人生の中で最も不思議な出来事になります。ここまでくると、病気という理由を口実にして、見えない存在が私を不食へと導いていったとしか思えません。

 

■p108
 チーズが大好物という人でも、いったんやめると、なぜあんなにチーズを好んだのか、理解に苦しむほとになります。人の好みとは、ほとんどが先入観なのです。考えが柔軟になれば、それがよくわかるでしょう。

 

■p109
 意外に思われるかもしれませんが、忙しい人ほど小食はらくにできます。とくに、自分の仕事が好きで、忙しく働くことに充実感を覚えている人は、ときには食事をするのがめんどうになることもあるはずです。あまりにも忙しくて、食事を忘れている人もいます。趣味に没頭していると、まったく食事をしなくても平気という人さえいます。これらの人たちは、食事をすると意識と体の働きが低下することをよく知っているのです。そういう人は、すぐに一日一食に慣れるでしょう。私も養護教諭をしているときは、忙しさから昼食をとれないことが多くて、すぐに一日一食に移行できました。

 逆にいうと、ヒマな人は食事の回数をへらすのがたいへんです。食事の回数をへらすと、ますますヒマになってしまうからです。つまり、食事とは、ヒマをつぶすための最高の手段なのです。

 したがって、ヒマを持て余している人が最初にすべきは、食事の回数をへらすことより、まず趣味を見つけたり仕事をしたり、あるいはボランティアに参加したりするなど、忙しく頭や体を使うようにすることです。そうすると、食事の回数も自然にへらすことができます。

 

<第3章:山田鷹夫>
■p152
 心と体が透明であれば、食欲がわいてこないということ。心と体がにごっていると、そのにごりが食欲となって現れてきます。

 

■p152
 要するに、不食とは「慣れ」です。小食をすでに習慣としている人は、この意味がよくわかると思います。食べるものをどんどんへらしていくと、本当に体は食べないことに慣れていくのです。