【イビチャ・オシム】考えよ!

イビチャ・オシム】考えよ!(2010/4/10)

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 日本人は、世界のトレンドをいち早くキャッチし、戦術や戦略をコピーすることに熱心である。今世界のサッカーで何が起こっているかを熟知している。おそらくヨーロッパの成功を模倣したいのだろう。みんなそれを望んでいる。

 人間は、他人を羨むようにできている。特に、その模倣の対象がベストな人物であればなおさらのことである。そして模倣をすることによって、自らもベストに近づこうとする。練習、あるいは、そのベストな選手との接触を通じて、あるいは、試合や対戦を通じて。あるいは、選手が海外のクラブと契約しプレーすることで経験値が交換され、選手は理想とするベストの選手に近づくことができる。

 だが、サッカーにいて模倣は簡単ではない。本物のセンスが必要なうえに、ゲームは複雑で、例えばバルセロナのサッカーを、そのまま日本人が実践することは不可能である。バルセロナのパスゲーム、ポゼッションサッカーが理想であることは、世界中の誰もがわかっている。しかし、技術、メンタル、戦術、そしてあのようにコレクティブにプレーするための訓練がなければ、バルセロナには近づけない。つまり模倣のために必要なものをどう手にするのかを、誰もが考えようとしていないように思える。

 日本はコンピュータやインターネットの発達した社会である。情報が溢れている。そういう電子社会に身を置くと、まるで誰かに操られているように自分の考えを持つことが難しくなる。模倣という形で他人の考えを疑いなく受け入れ、サッカーにとって心臓とも言える「考える力」を失う。

 人生における目標を持つことは悪くない。それが模倣であっても、ゴールに向かって熱心になる。これは、決して悪いやり方ではない。しかし、純粋に手法を模倣するだけで目標に到達しようとすることには問題があるのだ。

 人はイギリス人よりももっと大きなイギリス人になることはできない。例えば、イギリス人は、すでに100年以上プレーをしている。そういう歴史に追いつき、真似をすることは不可能である。目標とする同タイプの選手を探すことはできる。模倣するチームを見つけだすことはできる。しかし偽物は、いつまでたっても偽物。模倣はどこまでいっても模倣なのである。

 誰かを100パーセント模倣することは困難である。スタジアムを買うことはできる。チームを買うことはできる。しかし伝統と経験年数は買うことができない。国際化を模倣によって実現しようとして、メッシに似た選手を探しだし、あるいは育て、戦術からすべてを同じにしてバルセロナに似たチームを作ろうとしても、決して追いつくことはできない。

 そしてもしかすると、模倣は逆に、日本人が持っているオリジナリティを引き出すことを阻害することになるかもしれないのだ。