【三浦知良】やめないよ

三浦知良】やめないよ(2011/1/20)

■プロローグより
 いま僕は、身体的にも、ある意味で未知の領域を歩いているのだと思う。90分走れる身体がいったいいつまでどこまでもつのか、僕にも誰にもわからない。

 2010年のシーズン、僕の公式戦での出場時間は、おそらく、ブラジルから帰ってきて以来、最も少なかったはずだ。こういうシーズンの過ごし方は実に難しい。試合にフルで出続けているときのほうが心身のバランスはむしろとりやすい。

 選手によっては、これだけ練習しているのに試合に出られないのだったら、こんな苦しい練習はもうしなくてもいいだろう、という気持ちにだんだんとなっていきがちだ。とりわけ、年齢を重ねると、どうしてもそういう類の言いわけを自分自身に用意してしまう。

 けれども僕は、どうしてもそういう気持ちにはなれない。1分も試合に使われなかったという悔しさ、むしゃくしゃする気持ちがとても強く出てきて、また練習に向かっていこうとする。その姿勢は、10代、20代のときから、まったく変わっていない。まあいいや、なんて思ったことは一度もない。

 ただ、僕は、そんな悔しさも含めて、いまもなおサッカーというスポーツを続けられていることが楽しくて仕方ない。

 たとえば、チームみんなでスーツを着て、新幹線に乗って、4時間かけて岡山に遠征に行く――というようなこと自体が嬉しい。サッカー選手である、と実感できるのだ。それは、10代のときブラジルで10時間も20時間もバスに揺られ、みんなでメシを食って、治療して、試合の開始時間を待って……、と25年前にやっていたことと同じことなのだ。

 ふつう、会社員であれば、40歳を過ぎるとそれなりの地位に就いているのかもしれない。けれども、僕は一選手だから、あるときは監督の指示に従い、あるときは18歳の選手と同じジャージを着て、同じメシを食堂で食べる。そんな環境にサッカー選手として浸っていられることが本当に幸せで、楽しい。30歳でやめてしまった選手にはもう味わえないことを、もうすぐ44歳になる僕はまだやれるのだから。そんな、自分はサッカー選手なんだ、と思える瞬間が、楽しくてしかたがない。

 試合前日あるいは遠征当日、監督がメンバー発表を行う。そんな監督の声を僕は25年間、ずっと聞き続けてきた。「今回の18人を発表する。誰々、誰々」――。メンバーに入っているのか、入っていないのか。そのドキドキ感も10代のときとなんら変わらない。入っていなければ、居残り組の練習で鬱憤を晴らす。入れないのは悔しいけれど、プロの選手としてまだ戦っているということがうれしい。

 ブラジル時代に、メンバーから外されたり、試合で使われなかったときに思った「こんなクソチーム、やめてやる」という怒りの気持ちは、いまも変わらず湧き出てくる。でも、次の日に練習をすると、汗をかいてすっきりして、また新しいアイディアも出てきて、再生されてしまう。練習するまでは頭にきているのだけれども、「サッカーをやっていると、いいことあるよ。ちゃんと練習をやっていれば……」と自分を俯瞰して話しかけてくるもうひとりの自分がいて、感情的な部分が削ぎ落とされ、またサッカーをやろうという気になるのだ。そんなことを僕はもう25年間繰り返してきた。

 未知の領域をこれからも、苦しみながら、楽しみながら、一歩ずつ踏みしめて歩いていこうと思う。