【苫米地英人】テレビは見てはいけない

苫米地英人】テレビは見てはいけない(2009/9/29)
※以下抜粋

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 ここまで述べてきた私の考え方とは正反対に、日本人は昔から、自分を束縛してくれる教えを好む傾向があります。私の言葉でいえば「奴隷の思想」なのですが、歴史的にもずっと日本人は「お上(おかみ)」のいうことを聞くのをよしとしてきましたので、民族的に「奴隷の思想」が骨肉化しているのかもしれません。

 自分を束縛する考え方といえば、たとえば「受験戦争」もまさにその一つです。受験勉強に代表されるように、多くの人が子どもころからいつも目標を与えられ、何かをやっていないと不安に苛まれるように育てられています。

 私はかつて、慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパス(SFC)が設立されたときに、クラスを手伝っていたことがありました。SFCがスタートした最初の年でしたが、高校を出たばかりの大学生がみな、自分のスケジュール帳をしっかりもっていることに驚きました。そしてそこには、びっしりと朝から晩まで予定が書き込まれているのです。授業はもちろん、夜の飲み会や遊びの予定など、1ヵ月先までスケジュール帳が文字で埋め尽くされている。

 彼らと話してみると、「スケジュール帳がいっぱいになっていないと不安だ」というのです。自分のスケジュールが予定で満タンであることが、日々を有意義に過ごしている判断基準になっているのです。

 その予定が合コンであろうが何だろうが問題ではありません。スケジュールの中身はどうでもいいのです。

 私たちのような科学者は逆に、スケジュールがすっからかんであればあるほど嬉しく感じます。なぜなら予定の入っている時間は、科学者にとって生産性のある時間とはいえないからです。学者は、研究した結果を論文に書いて発表することが求められますが、論文を書くこと自体は生産ではありません。あくまでも研究することが学者の仕事にとっての生産活動になります。

 すでに生産したことを活字にする行為は、研究者にとっては「必要な作業」です。小説家ならば本を書くことが生産行為になりますが、研究者にとっては学問そのものを追究するのが生産であり、文章を書くのはその結果なのです。

 学問というのは、すっからかんの時間がないとできないのです。だれにも会わずに考えているのが学問なのですから。だから学者にとっては、スケジュールが空っぽのときのがいちばん生産的なのです。世界じゅうの学者が、そのように生きているはずです。

 ところが学生たちは違いました。だれかに会ったり、どこかに行ったり、予定でスケジュールがいっぱいだと「生産的に過ごしている」気分になれるというのです。

 そのとき私は「これが日本の受験生の姿なんだ」と感じました。

 日本国内に限れば、大学受験において東京大学より上の存在はありません。そう考えると、目標の大学を定めて受験勉強することは、そんなにたいへんなことではない。勉強したい分野が明確なのであれば、それが学べればよいのですから、本質的には大学の名前自体は東大だろうが早稲田だろうが、どこでもいいのです。

 どれか一つの大学をめざして、合格に必要な知識を身につけるくらいの勉強量は、たかが知れています。それが試験ともなると、無限に点を取らなければならないかのように、朝から晩まで勉強のスケジュールをびっしりと入れてしまう。

 上をめざすこと自体はよいことです。問題は、子どものころから自分の行動を、なんらかの価値に合わせて徹底的に束縛することがよいことである、そうでないと不安になるような教育を受けつづけていることです。

 それは「奴隷の思想」です。朝から晩まで働くのが当然で、ぶらぶらしている人間は非難されるべきであるとの価値観に洗脳されてしまっているのです。

 

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 たまに近所のホテルのカフェにランチを食べにいくと、私立小学校の制服を着た子どもたちと、そのお母さんをよく見かけます。

 会話に耳を傾けると、「○○の私立ではこうなのよ」「同級生に俳優のだれだれのお子さんがいて」といった会話が聞こえてきます。

 そのようなスノビッシュなグループのなかで共有されている価値に浸かることで、自己実現したかのような満足感を得ているのだと思われます。そんな彼女たちも、家に帰れば旦那はサラリーマンで、リストラの危険に怯えているかもしれないのですが……。

 近年の東京都市部では、小学校に入学するときから「お受験」をするのが上流階級に入るためのステータスの一つとなりつつあります。一部では幼稚園に入るときからお受験を始めている親子もいます。

 よい小学校に入るために4、5歳のときから塾へ通って習いごとをする。どこか異常なことだと思わないのでしょうか。「よい学校に入れないと一生を棒に振るかもしれない」との不安感が母親の心を覆っているのです。

 「お隣さんは毎日、塾に通っているのに、ウチは週一回しか行かないで大丈夫かしら」と不安をいつも抱えている。それで幼稚園や小学校のころから、朝から晩までびっしりとお稽古ごとや塾で子どもの時間を埋めていきます。それらのお稽古ごとやスポーツクラブにしても、「名門サッカークラブに入れよう」「有名なピアノの先生に習わせよう」といった具合に、つねに外部の何かしらの評価軸に従う生き方を続けていくのです。

 そうした環境で育った子どもが大人になったら、はたしてどうなるでしょうか。

 ほとんどの人が「行動を束縛してくれるのが嬉しくて仕方ない」状態になります。他人から「あれをしろ」「これをしろ」「これはするな」と決まったルールを課せられるほうが安心で居心地がよいと感じるようになってしまうのです。

 それこそが「奴隷化」だと私は考えます。24時間、他人から「このルールに従って生きなさい」と命じられ、そのとおりに生きることは奴隷以外の何物でもありません。母親たちは、気づかないうちに自分の子どもを奴隷の状態でいることに満足するように「洗脳」しているのです。

 

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 近年、ある女子大の学長さんが女性向けに生き方を指南する本を書いて、お受験ママたちが娘にぜひ読ませたいとたいへんな評判となりました。その内容は「お礼状は早めに出しましょう」とか、「挨拶はこうしましょう」といった「女性はこうあるべきだ」というマナーを教え諭すものです。

 アメリカにも女性にマナーを教える「ジョン・ロバート・パワーズスクール」という世界的なフィニッシングスクールがありますが、それと同じようなものでしょうか。かつて女性向けに「男性からの1回目の誘いは必ず断ること」といったデートのマニュアルを書いた本がありましたが、それも同じです。いずれも行動の規範をこと細かく伝授してくれるため、読むと安心するのです。そのとおりに行動する自分が正しいと思えるのです。

 こうしたマニュアルに従ってそのとおりに行動しようと考えるのは、「情報空間における化粧」といえます。優美な立ち居ふるまいや話し方を心がけ、マナーにしたがって生きましょうというのは、自分を情報空間でメークアップして、ある決まった価値観に人よりも早くしっかりと適応しなければならないということです。

 そこには、差別思想を含んだ儒教的な思想が残存しているように思います。

 儒教といえば「長幼の序」や「親を敬う」といった教えで知られていますが、その根本には、皇帝を頂点として、人民を上から下まで順位づけして区別する考え方があります。中国では昔から儒教を利用した支配の論理で政治が行われてきました。日本においても、士農工商という身分制度が江戸時代を通じて長く敷かれてましたし、それを打破したはずの明治政府も華族という制度を残して支配のシステムを作り上げました。

 つまり儒教とはひと言でいえば、「支配者にとって都合のよい奴隷をつくるための教え」なのです。

 とはいえ「儒教は支配の論理だ」といわれても、たいていの人は「そういえばそういう一面もあるかもしれないね」と思うくらいでしょう。「でも年長者を敬うのはいいことなんじゃないの?」と
受け取る人が多いのではないかと思います。

 しかし実際には、上位者に従うことがもっとも優れた態度である、そうでなければ幸せな人生を送れないという、正義の名を借りた強制システムがそこには働いている。その根底に流れる「支配の論理」は、これからの世界には必要のない考え方だと私は思います。長男のほうが妹より重要であるという儒教は、大げさにいえば日本国憲法の理念にも反しており、その点で21世紀には不要な差別思想でしょう。

 結局のところ、女は良妻賢母になることがもっともすばらしい生き方であるとの決まりきった価値観を押しつけられているのです。著者は意図していないでしょうが、これも一種の「洗脳」といえます。

 「自分が愛されるよりも他人を愛せ」という考え方はとてもすばらしい。しかしその言葉が、自分よりも上位の人間から強制された場合、それは「自分に服従せよ」という意味になります。家庭に入って夫と子どもを愛するというのも、ほんとうに自分が欲する生活であればよいのですが、他人に強制されるものではありません。

 会社で働く営業マンには目標の数字が与えられ、それを達成することが仕事の至上価値のように上司に教えられますが、これも洗脳です。上司はさらにその上司に「部下に目標を達成させるのがおまえの価値だ」と洗脳されているのです。

 ですからまず、何かしら他人に「こうしたほうがいい」といわれたら、それがほんとうに自分のしたいことかどうかを考えてみるべきです。その過程を経ずに盲目的に受け容れていると、知らず知らずのうちに奴隷状態に置かれる危険性があります。

 さらに問題なのは、そうした奴隷状態がむしろラクになってしまうことです。ほんとうはつらい毎日なのに、それがコンフォートゾーンとして定着してしまい抜け出せなくなっている人の姿は、朝の通勤電車に乗ればそこかしこで目にすることができるはずです。

 大前提として、コンフォートゾーンは他人に選ばせるのではなく、自分で選ぶことです。つねにそのことを念頭に置いておくと、人生が少しずつ自分のものになっていきます。

 

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 たいへん不思議なことですが、日本の公立中学校や高校では、いまだに決まった制服を着用し、髪の毛の長さまで学校が管理している場合が少なくありません。

 そもそも学校の制服は、裕福な家庭の子どもと貧しい家庭の子どもとで、見た目に差がついて、いじめが起こることのないように導入されたとの説があります。しかしいまでは、ユニクロをはじめ、安いのに品質のよい衣服を買える量販店がありますので、経済的な側面ではむしろ制服のほうが高くつきます。

 また髪型についても、子どものころにヘアスタイルのような本質的でないものに気をとられすぎるのはよろしくないとのもっともな意見もありますが、いずれ自由になれば、気にする人は否が応にもカッコつけようとするのですから、早いうちから好きにさせればいいと思うのです。ところが学校によっては、いまだに「男子はスポーツ刈り」などと校則で決めているところがあるようです。

 教育勅語で育った戦前生まれの校長先生がいる学校でそれをやっているなら、まだわからなくもないのですが、若い先生たちのなかにも、そのような画一的管理型教育に疑念を抱くことなく指導に当たっている人がいるというのですから、驚きを禁じえません。

 最近の日本人が「空気を読め」と他人に強要するようになった背景には、そうした教育制度の弊害があるのではないか。

 こういう教育を幼いころから受けて育った子どもは、「大人のつくった画一的な価値こそが正しい」との考え方に洗脳されてしまいます。

 そして、そのような画一的な価値=空気を読むことが正しい人間のあり方であり、「人間社会には共通の空気、望ましい空気があるべきだ」との論理になんの疑問も抱かない人間に育ってしまうのです。

 そしてしまいには、空気を読めない人間を「KY」と排除する、つまり、まごうかたなき「差別のシステム」を受け容れて、喜んでいるのです。

 「一つの集団には、それにふさわしい一つの空気がある」と思うこと自体が洗脳の結果なのです。これを解くには、日本の教育システムそのものを変えないといけません。

 もう一度いいます。

 この世に、読まなければならない空気なんか本来ないのです。